カウンセリングスタイル 心理学とカウンセリングを使って豊かに生きる!

カウンセリングスタイル 心理学とカウンセリングを使って豊かに生きる! <発信者>心理カウンセラー北端康良&りか [サイトマップ]
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October 23, 2003

カウンセリングスタイルへようこそ!

こんにちは。カウンセラーの北端です。

私がカウンセリングや心理学に出会ったのは、大学生の時でした。

まだ、自分が何をしたいのか、何が好きなのかわからずに迷っている状態でした。

私が心理学を学び始めたのはそんなときです。

心理学を学び始めてから

「もっと早くにこういうことを知っていたら・・・」

そんなふうに何度も思いました。その度に、

「この知識を広めて行きたい」

と思いました。

心理学に出会ってすぐに、インターネットに出会いました。

インターネットの可能性に衝撃を受けた私は、これを使って何かを発信しようとずっと思っていました。

今、考えるとその必然を感じざるをえません。

そして、自分の経験を通して学んだ心理学とカウンセリングの知識を多くの人と共有する為にこのページを作りました。

心理学やカウンセリングを学び始めてから、私は一つの夢を持っています。それは、私が時間とお金をかけて学んできたことを普通に学べる環境を作ることです。国語や算数を学校で学ぶように、心について学べるような環境をもっとふやしたいと思っています。

私が持っているものを分かち合うことで、一人でも多くの方が幸せで、豊かになればと思います。

●カウンセラー 北端康良 略歴
1973年12月 大阪生まれ
1994年
学生時代にアリス・ミラーの著書に出会い、心理学に興味を持ち始める。
1995年
心理学を実践的に学び始める
1996年 妻の病気をきっかけに本格的に心理学を学び始める
セラピスト 平準司先生に出会う
  内閣府主催の国際交流事業 SSEAYP(東南アジア青年の船)に参加。様々な文化、宗教に触れる。言葉や価値感を越えたつながり作りを経験する。
  神戸メンタルサービスのWebsite製作開始
1997年 大阪市立大学卒
 

神戸メンタルサービスのWebsiteを公開

  ヴィジョン心理学創始者 チャック・スペザーノ博士に出会う
  成功を夢見て、ネットベンチャー企業に就職するも半年で倒産、失業
  神戸メンタルサービス カウンセラー/セラピスト養成講座 入会
1998年

運良く、大手企業に就職。ネット関連業務に従事

  初めてチャック・スペザーノ博士の国内ゼミナールを受講
  人生の大転換となる癒しを経験する
1999年 メールマガジン”恋愛心理学”創刊
  神戸メンタルサービスへ入社 本格的にカウンセリング活動開始
2000年 結婚 夫婦でカウンセリング活動を開始
2001年 社団法人日本産業カウンセラー協会主催
初級産業カウンセラー養成講座受講
2002年 厚生労働省認定 産業カウンセラー 初級資格 取得
2003年10月 「心理学とカウンセリングを使って豊かに生きる!」カウンセリングスタイルを開始

現在は、カウンセリングを行いながら、カウンセラーの指導・育成、書籍、記事の執筆、カウンセリング普及、利用促進に従事。


運営管理者
北端康良
〒564-0052 大阪府吹田市広芝町9-31-404
Tel:06-6190-5611  FAX:06-6190-5612
info@counselingstyle.com
Copyright(c)2003 Counseling Style all rights reserved.

カウンセラー 北端康良の紹介

◆北端 康良

神戸メンタルサービス専属カウンセラー。神戸メンタルサービスのインターネット関連サービスを立ち上げ、メルマガ読者20000名以上を獲得。現在顧客の7割をネットで集客する。

カウンセラー・セラピストとして、年間600件の個人カウンセリングと、約30回の心理学講座、20回以上の癒しのグループセラピーを行う実践派。2002年に産業カウンセラー初級資格を取得。

パートナーシップ(恋愛、夫婦関係、結婚、離婚など)全般、家族関係、死に関する問題、ライフデザイン、メンタルトレーニングなどを専門としている。

現在は、カウンセラーの養成と社内メンタルヘルス促進に重きを置き、質の高いカウンセラーの養成と、職場環境の改善、社員のストレス軽減など、環境へのアプローチも行う。

社長・経営者の為のカウンセリングも得意とし、会社の成長に伴う組織のひずみに対して心理学を応用することで、よりスムースで安定的な成長を促すメンタルコーチング、コンサルティングも行う。

社員やその家族も含めた、会社に関わる人全体の幸せを考えたカウンセリングに取り組んでいる。

著書に『言えなかった「好き」 これなら言える』(河出書房新書)がある。

●講演履歴

(株)船井総合研究所 訪問販売勝ち組クラブ
大阪市教育委員会事務局社会教育課 日之出青少年会館


●マスコミ関係

テレビ出演 ワイドABC(朝日放送)   心理コメンテーター
テレビ出演 シブスタ(テレビ東京)   ゲスト出演者をカウンセリング
ラジオ出演 マツダスーパーサンデー 

週刊Be-ing
DODA(デューダ)
日経トレンディ

June 28, 2002

あなたもきっと幸せになれる!

はじめまして。カウンセラーの北端です。6年前に私はこんな質問をされました。

「あなたは今、幸せですか?人生に満足していますか?」

「・・・・・・・・・・・・・」

6年前の私の答えは「No」でした。

問題だらけでどうすれば出口に辿り着けるのか全くわかりませんでした。

あきらめたくなったり、人生やめたくなりました。

「人生にリセットボタンがあるのなら、今すぐ押したい」

「どうせこのまま一生、報われないままだ」

「夢や希望なんか持っても傷つくだけだ」

そう信じていました。でも、そんな私がカウンセリングや癒される体験を通して幸せへの切符を手にしました。

「幸せをつかむ方法」は沢山あると思います。

その中の一つに「カウンセリング」という選択肢を入れてもらえれば嬉しく思います。

●自信なんて全然なかった!

今ではカウンセラーとして人前で話すこともありますが、昔の私はそれはもう、とても恥ずかしがり屋でした。こんなことを言っても、ほとんど誰にも信じてもらえませんが、自分の思っていること、考えていることの10%も表現することができませんでした。

「なぜか?」って。それは全く自分に自信がなかったからです。人から受け入れられる自信が全然持てなかったからです。

そんな私は、自信のない男性の多くがするように自信のある振りをしました。強い振りをしたんです。でも、そのやり方は今から振りかえるととても子供っぽい方法でした。吼えている犬のようなものです。怖がりな犬ほど吼えますよね。私も同じでした。恐れを感じていた度合いだけ、強がったわけです。

この方法は自信のなさを隠すのにとても役立ちました。でも、欠点が一つだけありました。それは人が私に近づきにくくなるということでした。例えば、あなたは吼える犬に近づきやすいですか?それとも近づきにくいでしょうか?近づきにくいと思います。私なら可愛くなついてくれる犬のほうが近づきやすいです。でも、当時の私はそのことにまったく気づいていませんでした。私は吼える犬と同じようにとても近づきにくい人になっていたのです。

ですから、昔の私を知っている人は私のことをこんなふうに言いました。
「近づきにくい雰囲気だった」(強がっていたから)
「何を考えているのかわからなかった」(自信がなかったので自分を表現できなかったから)
「変わったやつだった」(自分を表現する時あまりにも緊張していたから)
「自分の世界を持っているやつだった」(自信がなかったので、一人もしくは小人数の価値観の合う人とだけ付き合っていたから)

書き出せばきりがありませんが、これが私の評価でした。

結果的に私は自信がないために、ますます自信が持てない状況にはまってしまうという悪循環に陥ったのです。自分自身を受け入れることができなかったので、「人からも受け入れられるはずはない」と思いこんでいたのです。

●最高の幸せ

そんな私にも一つの転機がやってきました。振りかえってみると、その出会いがなければ、今の私はいなかったでしょう。それは、自信のない男に自信をつけるほどの大きなチャンスだったのです。

皆さんは今まで最高に幸せな気分を味わったことがありますか?大好きな人とお付き合いができるようになった瞬間。プロポーズされた瞬間。大きな仕事の契約が成立した瞬間。志望校からの合格通知がきた瞬間。優勝した瞬間。宝くじがあたった瞬間。信じられないような豪華なバケーション・・・。

私がはっきりと「人生最高の幸せだ!」と感じた初めての瞬間は妻と付き合い始めた時でした。
「こんなにも愛し合える人がいるなんて、俺はなんて幸せ者だろう!」
と感じていました。

パートナーシップ(恋愛関係・夫婦関係)のすばらしいところはお互いを愛し、受け入れていくことです。そうすることによってお互いを癒し合い、成長することが出来ます。

自信のない私にとって、妻との出会いはまさにその恩恵にあふれた癒しのプロセスでした。彼女と過ごすたびに、自信の無さが一つずつ、癒されていきました。彼女に受け入れられるたびに、自分を受け入れることができるようになったのです。
自信がない度合いだけ、自分を受け入れることができなかった私にとって、妻との出会いは今までの自己概念を覆すほどの経験だったのです。

また、この年は大学最後の年でもあり、1ヶ月後には内閣府(当時は総務庁)主催の国際交流事業SSEAYP'96(東南アジア青年の船)への参加も決定していました。
SSEAYPとはアセアン各国と日本との間の共同声明に基づいて、昭和49年に開始され、各国の参加者はそれぞれの国を代表しこのプログラムに参加します。プログラムの中には文化交流、勉強会、各国での視察、ホームステイをはじめ、各国政府要人(各国の大統領や首相など)への表敬訪問も含みます。
当時は、タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ブルネイ、ヴィエトナムのアセアン7カ国(2002年現在、10カ国)の青年約350名と日本青年約40名が約50日間、船内で共同生活をしながら、アセアン各国及び日本を訪問するというプログラムでした。

そのようなチャンスを目の前にした私には未来が輝いているように思えたのです。

●一抹の不安

SSEAYP参加に先立ち、私は事前研修参加のため東京に向かいました。多くの恋人がそうするように、私達もよく連絡を取り合いました。いよいよプログラムが始まり、熱海から船が出向する日が来ました。乗船すると一切連絡が取れなくなると思っていたのですが、船内には公衆電話があり、出向後3日間くらいは日本国内への通話が可能でした。

東京にて事前研修を受けていた間は何の問題もなかった彼女に突然異変が起こったのは、日本を出向して2日ほど経った頃でした。
彼女に電話をすると体の具合が良くないので総合病院に行くとの事でした。心臓のあたりに違和感を感じるというのです。彼女の母や姉に心臓病があり、しかも彼女の母親はそれが原因で亡くなったらしいと聞いていた私に一抹の不安がよぎりました。彼女から話を聞けば聞くほど不安は膨れ上がりましたが、日本を離れた私にはどうすることもできませんでした。

そうこうするうちに船は日本海域を出ました。日本海域内を航行中は電話連絡もできましたが、日本海域を出た後は第1訪問国、タイのバンコクに到着するまでまったく連絡が取れません。情報がない中で不安や恐れが増大していきました。
「何かあったらどうしよう・・・」
しかし船に乗っている以上引き返すことなどできるはずもありません。

「なんとかしなければ・・・」
焦る思いを押さえながら、私はアドミニストレーターに協力を求めました。事情を説明すると船内には外部との連絡を取るために衛星電話が装備されているとの事。なんとか許可をもらって衛星電話経由でやっと彼女に連絡をとることができたのです。

●谷底への転落

やっとの思いで彼女と連絡をとった私を待ち受けていたのは、

「入院しなくちゃいけなくなったの・・・」
「手術を受けることになったの・・・」

という彼女の言葉でした。心臓が危険な状態にあると聞かされました。ショック為、ろくに話も出来ないまま、衛星電話のタイムリミットとなり電話を切らねばなりませんでした。

「ついこの間まで、あんなに元気だったのに・・・」

悪い夢を見ているようでした。日本にいたほんの何日か前の出来事がはるか遠い昔の思い出のように感じられました。

バンコク到着まであと約1週間ありました。永遠に続くかのような長く、重苦しい時間でした。

「もし、死んでしまったらどうしよう・・・」

不安との戦いが始まったのです。しかし、それは更に大きな恐れの前兆に過ぎなかったのです。

■~死の恐怖~

1週間後。やっとバンコクに到着し、ホストファミリーに連れられてステイ先の家へ向かいました。電話を借りて実家に電話をすると母親が出ました。姉が彼女を知っていたので姉と替わってくれるように言うと

「友達が急に倒れたらしいよ・・・」
「緊急手術をしなくちゃいけないんだけれども、血液が足らないみたいで・・・」
「お姉ちゃんも輸血に行ったよ・・・」

と言われました。ショックのあまり口も聞けませんでした。自分でも何を言っているのかわからないままひとまず電話を切り、死の恐怖と戦いながら、姉が帰宅する時間を待ったのです。

数時間後、再度実家に電話をし姉から手術の様子を聞きましたが、身内ではないので詳しくは分からないとのことでした。ただ、入院当日、院内で倒れ緊急手術となり、たまたま専門医がいたおかげで、奇跡的に一命を取り留めたとだけ聞かされました。

ほっとした気持ちとこれから先の不安と・・・。入り混じる複雑な思いが時間と共に過ぎていったのです。

それから、約1ヶ月後・・・。
インドネシアに到着した私に彼女から1通の手紙が届きました。そこには事の経過が記されていました。
入院当日、突然、心臓の弁が破裂し倒れたこと。最後の力を振り絞ってナースコールボタンを押したこと。気がついたら手術台の上に横になっていたこと。そして、目が覚めたらICUのベッドに横たわっていたこと。1分でも手術が遅れていたら死んでいたかもしれないということ。もう以前のような生活はできないということ。でも、回復に向けて頑張っているということ・・・。

SSEAYPプログラム中、私はほとんど毎日手紙を書きました。そして、各国に寄港するたびにまとめて手紙を彼女に送りました。船旅でしたので手紙のやり取りには大きなタイムラグがありました。それでも私達はお互いに手紙で励まし合ったのです。

■変わり果てた姿

そして、日本を離れてから約2ヶ月後・・・
プログラムが終了し、東京から新幹線に飛び乗り、急いで大阪に向かいました。そして、彼女の入院する病院までたどり着いたのです。

病室に一歩近づくたびに2ヶ月ぶりに再会できる喜びと、言いようのない不安を感じました。そして彼女のネームプレートがかかった病室を見つけ、中に入りました。
そこで待ち受けていたのは、私が知っている彼女ではなく、闘病生活の為、やせ細った彼女の姿でした。彼女は笑って私を迎えてくれましたが、彼女の目には2ヶ月前に私を送り出したときの明るさではなく、深い悲しみがあったのです。

「ごめんね・・・」

彼女は笑いながらそう言いました。

この言葉の真意を理解するにはそれからずいぶんと長い時間がかかりました。後にわかったことですが、大きな病気や障害を持ったり、体に残るような傷跡を受けたり、犯罪の被害を受けた方の多くは自分を責めてしまいます。まるで自分が間違いや罪を犯したかのように、汚れたかのように、欠陥品のように、愛される価値がないように思ってしまうからです。

当時の私にはそこまで理解することはできませんでした。彼女の言葉よりも、一番彼女が大変だった時期に傍にいれなかった自責の念が強かったからです。

私達は2ヶ月分の空白を埋めるために共にたくさんの時間を過ごしました。私は毎日手紙を書く代わりに、毎日お見舞いに行きました。そして、1ヶ月後彼女は無事、退院となったのです。

■絶え間ない不安

彼女の病気についてまだ詳しく知らなかった私は、日本に戻ってから病気について調べました。そして主治医や同じ病気の人からお話を聞きました。すると、とても危険な病気で治療法も確立されていないとの事。
しかも、彼女の場合、突然、心臓弁が破裂し、検査なしの緊急手術だったので準備ができず、大動脈が裂けたままの状態にあることがわかりました。そして、その裂け目は時間と共に裂け、それを防ぐ手立てはないことがわかりました。お薬と安静が一番だと聞かされました。重いものを持った瞬間に裂けるかもしれない。立った瞬間かもしれない。歩いているときに突然裂けるかもしれない。何がきっかけになって悪化するか分からない。つまり、常に死の危険があると知らされたのです。

このような体験をされた方は分かると思いますが、こうなると人間、世の中すべてが危険に満ち溢れているように見えます。外出は危険。5分以上歩いては駄目。仕事も駄目。運動ももちろん駄目。遊び駄目。なにもかも駄目。そして、彼女に電話をしてつながらないときは「もしかして倒れたんじゃないか・・・」と不安になります。「倒れる=発作=血管破裂=死ぬ」そんな図式が頭の中にできあがっていたので、私の心は常に緊張状態でした。常に死の恐れが付きまとっていたのです。私のエネルギーのほとんどすべてがその緊張と恐れをコントロールすることに使われていました。

ここからどうやって抜け出せばいいのか、皆目見当もつかなかった当時の私には、残された人生の選択肢はたった一つのように思えました。それは、
「安全に、リスクのないように生きること」
ですので、この頃の私はすべてに対してスーパーコントローラー(超支配者)でした。彼女の為すことすべてに口を出し、危険のないように、安全であるようにさせたのです。

そのときの私の選択基準は、人生が「充実している」とか「幸せ」だとか、「楽しい」とかではなく、「安全か」それとも「危険か」の判断しかありませんでした。すると人生が「ルール」(して良い事とダメなこと)ばかりになり、「してはいけないリスト」が増えていったのです。そして自分で作ったルールが自らの首をしめる結果となったのです。

最終的にはそんな自分に疲れ切ってしまいました。どれだけ一生懸命彼女のことを考えて、努力をしたとしても、悪くなることはあっても、良くなることはない。現状維持が関の山だったからです。

私だけではなく、彼女自身も人生に対して大きな絶望感を持っていました。それは大きな病気や障害、事故、失敗などをされたことのある方なら誰でも陥る罠です。
「もう、私は今までの私じゃない」
「前のようにはいかない」
「仕事も出来ない」
「旅行にもいけない」
「家の中で静かに暮らすしか道はない・・・」
「こんな私は迷惑ばかりかけてしまう・・・」
「私の人生から、夢も希望も無くなった」

お互いがお互いの不充分さを痛感し、私が自分を責めていると、それを見て彼女も彼女自身を責める。彼女が彼女自身を責めている時は、それを見て私も自分を責めてしまう。完全に悪循環に陥って、そこからどうやって抜け出したらいいのか皆目見当もつきませんでした。

そんな私達に人生の転機となる出会いが訪れたのは彼女が病気になってから約8ヶ月経った頃でした。

●一縷の希望

セラピストの平先生が私達にチャック・スペザーノ心理学博士を紹介して下さったのはそんな時期でした。ハワイ在住の博士がたまたまた来日ゼミナールのため、京都まで来られていた時に「京都案内に付き合うかい?」と誘って下さったのです。そして京都観光が終わった後に「ゼミナール終了後に博士を関空まで送っていってくれないか」と頼まれ、私と彼女で博士を空港まで送っていくことになりました。

空港に向かう途中に、博士は私達の状況について相談に乗って下さいました。これまでの経緯や彼女の病気のこと、彼女の母親はその病気が原因で彼女を出産した直後に亡くなった可能性が高いことなど話しました。
(彼女は生後、施設に預けられ養父母の元で育てられた為詳細は不明なのです)
一通り私の話を聞いて下さった後に、博士はセラピストとして、私達が抱えている問題について説明して下さいました。

痛みを飲み込む、親から伝わる心理的なパターン、自己攻撃について

そして最後に「今、君達が抱えている問題はすべて解決することができるよ。だから、ハワイにおいで」と言ってくれたのです。

それを聞いた私達はとてもびっくりしました。お医者様に聞いても「医学の進歩があり、原因が解明されない限り、治ることはない」と断言され、この問題が解決できるなんて思ってもみなかったからです。
そして「解決できるよ」と言ってくれたのも、博士が初めてでした。

博士と別れてから、博士のお話を二人で思い返してみると思い当たるところがたくさんありました。そして、二人ともお互いの力だけでは限界を感じていたので博士の言葉を信じてみようと思ったのです。

そして、それから1年後の博士の来日ゼミナールに参加するための資金稼ぎを始めたのです。

●一通のメール

大学を卒業したばかりの私が就職したのはネット関連のベンチャー企業でした。朝早くからから終電の時間まで働く毎日でした。お休みも不定期でした。生活費を払った後に残るお金もほとんどありませんでした。そして、やはり不安と恐怖が私の心を支配していました。今思い返せば、当時の私はストレスで一杯だったと思います。体の節々の痛みや腰痛がひどく仕事に行くことができない時もありました。体が不調の為、気持ちも沈みました。今思えば、当時の体調